こんにちは。
akitoshiblogです。
昨日の夜にエナドリを飲んでしまい、寝つきが悪く今朝は少し遅い起床となりました。
エナドリは回復薬ではなく、後のことを考えない神風特攻隊のような片道ガソリンでしかないことを思い知りました。
ちなみに飲んだエナドリは、最近発売になった「ZONe」というものになります。
https://www.ssnp.co.jp/news/beverage/2020/05/2020-0512-1155-14.html
この飲み物、悪魔的です。
1本あたりにアルギニン750mg、カフェイン75mg、パラチノース5g、ブドウ糖20gが含まれていてある意味モンスターエナジーより危険な飲み物になります。
エナドリは用法容量を守って、あと翌日のことは考えずに飲みましょう(自戒)
さて、タイトルのお話ですが、人は自分自身をどう定義しているのでしょうか。
皆さんは考えたことがありますか?
東京は昨日ようやく緊急事態宣言が解除されました。
この自粛期間中は人に会うことが極端に減り、今まで会っていた人とのコミュニケーションも極端に減りました。
とうの僕も自粛していたのですが、この期間中「自分自身という人間の存在は、何が証明しているのだろう」と考えていました。
これを物質的に捉えるのであれば、自分という人間はそこに生きているだけで存在していると証明できるが、それだけでは人間として生きているいるとは言えないと思う。
絶対的な自分自身の存在が物質的なものとするなら、存在意義としての自分自身は何が証明しているのだろう。
そこで僕が出した答えが
「自分自身は自分以外の誰かによって定義され、相対的に存在している」
というものです。
人は一人では生きられないと言うのは、生命を維持すると言う意味以上に自分自身の存在を確認するために必要なものなんだと考えました。
例えば、衣食住全て完璧にそろった無人島に一人放り出されても人間としては生きてはいけると思います。しかしそれは生命を維持しているだけで、誰かにとって存在価値がある命とは言えないですよね。
これがもしテレビ番組の無人島企画で、視聴者がいる中での生活であれば、その人は一人の人間として存在しているといえるでしょう。
長々と書きましが、自分の存在は誰がが自分を認識してくれているおかげで成り立っているものだと僕は考えます。
だからこそ、この自粛期間が開けた今、ようやく人は人らしく生きていけるのだろうと思います。そして自分自身を自分自身たらしめてくれている周りの人に改めて感謝し、これからの生活を送っていこうと思います。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
引き続き感染に気を付けながら、外の世界を楽しんでいきましょう!
それではまた。